第2回 【徳島の『女人平家』】
 平家物語は、ご存知のように平清盛を中心とした軍記物語である。平曲という形式で語り継がれた文学的魅力とともに、時代を走り抜けた平安末期の人間像を物語る歴史的価値を持っていることも周知の通りであろう。イーズの修学旅行でも隔年で「源氏物語」とともに故人の足跡を辿り、歴史と文学の世界を体験している。

 清盛・頼朝・後白河のダイナミズムを「表」とするならば、祇園・祇王・小督・小宰相・建礼門院などの、戦乱の世に翻弄されながらもその生を全うした女性の生き様を「裏」と捉える方法もあるのではないか。表裏が一体となって歴史のレアレテの中に今を生き抜く人間の苦悩と交錯するものが見えるかもしれない。乱世は過去のものではない。ヒトは時間の軸を循環しながら生きているのだから。

 今回の文学散歩は、「女人平家」の視点から、小宰相局に焦点を当ててみた。

 平通盛は平清盛の弟平教盛の嫡男、つまり清盛の甥にあたる。(右図)順調に成長、出世し、皇后宮の亮を経て、平家の影響力のある越前の国主となり、越前の三位と呼ばれるにまでになる。そんな通盛が皇后宮の亮であった頃、恋に落ちた。
 その相手こそ、後の通盛の妻、小宰相の局である。小宰相は刑部卿範賢の娘で、小野小町に例えられるほどの宮中一の美人であった。通盛は一目惚れするが、小宰相はそれほど通盛に興味を持っているわけではなかった。そんなある日、たまたま御所に行く小宰相の車に出会う。家臣の手により通盛のラブレターが牛車に投げ入れられ、小宰相は捨てるわけにもいかず、文を持ったまま御所に行き、その文を女院の前で落としてしまう。女院はそれを見て、誰の文か皆にたずねると、小宰相だけが顔を赤らめて、返事をしない。
 女院も通盛が小宰相ファンであることを知っていたので、中をあけて見ると、香の良い香りがして、会ってくれない事を恨む歌が書かれていた。それを見た女院は小野小町の悲劇を引用して小宰相を諭し、自ら返事を書いた。小宰相も次第に通盛に心を開いてゆくのだった。

 こうして結ばれた二人はとても仲むつまじく幸せな日々を送っていた。しかし、この二人を引き裂く悲劇は刻一刻と迫っていた。平家への反乱が各地で勃発。通盛も北陸などに出陣するが、木曾義仲の猛攻の前に平家は都を守りきれず、一門は都を捨て西海に落ちていった。通盛は最愛の妻小宰相を伴って、都を落ちていく。屋島に本拠地を置き、勢力を回復した平家はかつての旧都福原、現在の神戸に舞い戻り、一の谷に堅固な城郭を築き、通盛は最愛の妻小宰相を一の谷に呼んで、都をうかがっていた。

 そのような平家の元に後白河院から一通の書状が届く。この書状を信じた平家は源氏がよもや攻めてくるとは思っていなかった。しかし、源氏は約束を反故にし一の谷に来襲した。平家も奮戦するが、一の谷の合戦は平家の負けとなる。

 平通盛は合戦の前日、翌日の合戦で自分が死ぬであろうことを小宰相に告げる。忍耐強く奥ゆかしい小宰相はこのとき心細く思ったのか初めて自分が身籠もったことを通盛に告げる。これを聞いた通盛は殊のほか喜んだ。

 しかし戦死を予感していた通盛は、小宰相にどうなっても生き残り生まれてくる我が子を育ててほしいと懇願する。翌日、通盛の予言どおり合戦は始まり、通盛は生田川のほとりで討ち死にをする。29歳の若さであった。

 その報告は通盛家臣瀧口時員によってもたらされるが、小宰相は信じようとしない。屋島へ落ち行きながら、小宰相は通盛の死を受け入れざるを得なくなる。水も喉を通らないほど落ち込んだ小宰相は、その思いを侍女に言うが、侍女も通盛の言葉のように生きよという。侍女は小宰相が自害することを恐れ、極力眠らなかったが、ついうたたを寝してしまう。その時、小宰相は月明かりの中、通盛の子を腹に宿し、一つ蓮にと船から飛び降り鳴門の海に入水した。寿永三年(1184年)2月14日、Saint Valentine's Dayのことだった。(なんのこっちゃ。)

 当時、女性は夫の死後後を追うよりも出家剃髪することが多かった。貞女は二夫にまみえずというが、小宰相はまさにこの手本のような人物であった。梶取の一人が女性が飛び込むのを見ていたので、小宰相が飛び込んだことが判明し、必死に探すものの見つけたときにはすでに小宰相は命を落としていた。

平家一門は通盛卿の遺品の具足を小宰相に着せ、浮かんでこないようにと海に葬ったという。平家一門の人々の優しさ、戦の物悲しさ、空しさがひしひしと感じられる。

 通盛、小宰相、その間に生まれるはずであった子、仲良く一つ蓮でめぐり合い三人で暮らしていることだろう。いじらしく、また自分に対して正直である。好きなら離れたくない。子が生れても、通盛の面影ばかりが思われるから余計に苦しい。死しかない。そして、小宰相は従容として死にのぞみ、愛する通盛の鎧に抱かれ、黄泉の国へと旅立っていった。19歳の若さであった。

 小生、今回は立派な小鳴門橋を通らず、小宰相局と同様に、小鳴門の海を船で渡ってみることにした。
市が運営する「岡崎渡船」に岡崎から乗船し、土佐泊まで3分間の小旅行(無料)。右写真
 この中間地点で身を投げたのかと思うと(他所という説もある)、日常の足として使っているはずの渡し船が、ひどく危ういものに思えてならなかった。屈託のない老漁師の笑いの下に戦乱の悲劇に翻弄された局が眠っている。聊か感傷に走りすぎるのであった。
 土佐泊にて下船。2分ほど北西に歩くと、漁師町の細い路の右側に「小宰相局の墓」という標識が見えてくる。 右写真
そこを右に曲がって急勾配の階段を上ってゆくと、土佐泊の町並みが開けてくると同時に、割と軟弱な撫養石でできた五輪の墓碑が見えてくる。右写真
(クリックで拡大表示)
(以下写真はクリックで拡大表示)
 高さ200cm(五輪塔含む)、剥落しかけた墓碑の正面には、「小宰相局 寿永三年甲辰二月十四日寂」とあり、 右側面には「形部卿(ぎょうぶのきょう)範賢女(むすめ) 越前三位通盛卿北方」とある。(写真1)

形部卿:正しくは刑部卿と書く。

(写真1)

 左側面には「衣かけし 人は一代 松千とせ」の句があり(写真2)、その下には「仙次郎 おわさ おしの おきよ おかめ お長 おまき」と、おそらく地元の漁師やその妻達であろう建立者の名が刻まれている。(写真3)

(写真2)
(写真3)
 弘化三年(1846年)今から160年前の建立である。(写真4)後方にあったという衣懸けの松は、枯れ果てて今はない。
(写真4)

 小鳴門海峡と土佐泊の町を眺めながら、少し筋肉痛のする足を(歳かなあ)休めるひとときは、訪れる人もいない墓碑の静けさと相まって、日常を遊離した逸民の気分をもたらしてくれた。こんどは、下の海峡で鰈の投げ釣りでもやってみようか。何が釣れることやら、オット、不謹慎、不謹慎。

 平家物語には多くの悲恋の女性が登場する。平曲「小宰相」(上原まり「春の夜の夢」より)は長い曲であるけれども、とても人の心情をよく捉えた素晴らしい件である。人を好きになるということは相手を思いやるということ。思いやりがないといわれる今日の社会、この小宰相の生き様は人への思いがどのようなものなのかを考えさせてくれるに違いない。時空間を超えて永劫に続く人間の真実は、愛憎模様を卒業することもできずに繰り返す人間の悲しさを、愛しさを包み込んでいる。 乱世は過去のものではない。ヒトは時間の軸を循環しながら生きているのだから。

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