| 第2回 【徳島の『女人平家』】 | ||||||||
| 平家物語は、ご存知のように平清盛を中心とした軍記物語である。平曲という形式で語り継がれた文学的魅力とともに、時代を走り抜けた平安末期の人間像を物語る歴史的価値を持っていることも周知の通りであろう。イーズの修学旅行でも隔年で「源氏物語」とともに故人の足跡を辿り、歴史と文学の世界を体験している。
清盛・頼朝・後白河のダイナミズムを「表」とするならば、祇園・祇王・小督・小宰相・建礼門院などの、戦乱の世に翻弄されながらもその生を全うした女性の生き様を「裏」と捉える方法もあるのではないか。表裏が一体となって歴史のレアレテの中に今を生き抜く人間の苦悩と交錯するものが見えるかもしれない。乱世は過去のものではない。ヒトは時間の軸を循環しながら生きているのだから。 今回の文学散歩は、「女人平家」の視点から、小宰相局に焦点を当ててみた。 |
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こうして結ばれた二人はとても仲むつまじく幸せな日々を送っていた。しかし、この二人を引き裂く悲劇は刻一刻と迫っていた。平家への反乱が各地で勃発。通盛も北陸などに出陣するが、木曾義仲の猛攻の前に平家は都を守りきれず、一門は都を捨て西海に落ちていった。通盛は最愛の妻小宰相を伴って、都を落ちていく。屋島に本拠地を置き、勢力を回復した平家はかつての旧都福原、現在の神戸に舞い戻り、一の谷に堅固な城郭を築き、通盛は最愛の妻小宰相を一の谷に呼んで、都をうかがっていた。 そのような平家の元に後白河院から一通の書状が届く。この書状を信じた平家は源氏がよもや攻めてくるとは思っていなかった。しかし、源氏は約束を反故にし一の谷に来襲した。平家も奮戦するが、一の谷の合戦は平家の負けとなる。 |
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しかし戦死を予感していた通盛は、小宰相にどうなっても生き残り生まれてくる我が子を育ててほしいと懇願する。翌日、通盛の予言どおり合戦は始まり、通盛は生田川のほとりで討ち死にをする。29歳の若さであった。 その報告は通盛家臣瀧口時員によってもたらされるが、小宰相は信じようとしない。屋島へ落ち行きながら、小宰相は通盛の死を受け入れざるを得なくなる。水も喉を通らないほど落ち込んだ小宰相は、その思いを侍女に言うが、侍女も通盛の言葉のように生きよという。侍女は小宰相が自害することを恐れ、極力眠らなかったが、ついうたたを寝してしまう。その時、小宰相は月明かりの中、通盛の子を腹に宿し、一つ蓮にと船から飛び降り鳴門の海に入水した。寿永三年(1184年)2月14日、Saint Valentine's Dayのことだった。(なんのこっちゃ。) |
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平家一門は通盛卿の遺品の具足を小宰相に着せ、浮かんでこないようにと海に葬ったという。平家一門の人々の優しさ、戦の物悲しさ、空しさがひしひしと感じられる。 通盛、小宰相、その間に生まれるはずであった子、仲良く一つ蓮でめぐり合い三人で暮らしていることだろう。いじらしく、また自分に対して正直である。好きなら離れたくない。子が生れても、通盛の面影ばかりが思われるから余計に苦しい。死しかない。そして、小宰相は従容として死にのぞみ、愛する通盛の鎧に抱かれ、黄泉の国へと旅立っていった。19歳の若さであった。 |
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| 小生、今回は立派な小鳴門橋を通らず、小宰相局と同様に、小鳴門の海を船で渡ってみることにした。 | ||||||||
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小鳴門海峡と土佐泊の町を眺めながら、少し筋肉痛のする足を(歳かなあ)休めるひとときは、訪れる人もいない墓碑の静けさと相まって、日常を遊離した逸民の気分をもたらしてくれた。こんどは、下の海峡で鰈の投げ釣りでもやってみようか。何が釣れることやら、オット、不謹慎、不謹慎。 平家物語には多くの悲恋の女性が登場する。平曲「小宰相」(上原まり「春の夜の夢」より)は長い曲であるけれども、とても人の心情をよく捉えた素晴らしい件である。人を好きになるということは相手を思いやるということ。思いやりがないといわれる今日の社会、この小宰相の生き様は人への思いがどのようなものなのかを考えさせてくれるに違いない。時空間を超えて永劫に続く人間の真実は、愛憎模様を卒業することもできずに繰り返す人間の悲しさを、愛しさを包み込んでいる。 乱世は過去のものではない。ヒトは時間の軸を循環しながら生きているのだから。 |
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