第1回 【清少納言は鳴門で…】
お爺さん 「昔々のことじゃったぁー。今から千年も前のことだから、だーれも知らないことなんじゃがあー。」
秋山枯木 「いっきなり常田富士男かい。誰も知らんのなら、あんたも知らんだろって。」
お爺さん 「ば、婆さんやぁー、こっ、こんな年寄りにツッコミいれよるでー。こいつぅー。」
お婆さん 「んんんんん…みみみみみいいみっ、見ったぁー」
秋山枯木 「今度は市原悦子の家政婦かいっ! 鳴門まで来て、夫婦で何やっとんですか! いいですか、静かに聞いてくださいよ。

……(zzzzzzz) こらっ、寝るな!

今日は、清少納言のお墓と言われている「尼塚」を訪ねて鳴門市里浦町にやって来ました。

MAPリンク

さて、「後撰和歌集」は知ってますよね。平安中期に作られた第2勅撰和歌集。八代勅撰集はよーく試験に出てますから。

お爺さん 「えーと、えーと、……今年のえーと(干支)は申!」
秋山枯木 「何を言うとんじゃ、忘れとんかい! 勉強しなおしさい。
よい子の皆さん、八代勅撰和歌集は「古今」「後撰」「拾遺」「後拾遺」「金葉」「詞花」「千載」「新古今」でしたね。」
お爺さん 「もっかいE'sに入れてくれるんかいのー。入学金は免除やなぁ。ああ、青春よ、今一度。」
秋山枯木 「誰が入れるか! 今から言うことをよーく聞いて勉強しなさい。

天暦5年(951)に村上天皇の勅命により大中臣能宣・清原元輔・源順・紀時文・坂上望城が「後撰和歌集」の編集委員になりました。その梨壺の5人の中の「清原元輔」は「清少納言」の父。
 そして彼女の曾祖父、つまり元輔の祖父「深養父」も舎人親王の末裔で、貫之・兼輔らと親交があり、古今集に17首入集、家集に『深養父集』、中古三十六歌仙、小倉百人一首にも歌を採られているほどの歌人。そうした名門に生まれながら、清少納言はあまり和歌が得意ではなく、むしろ漢学や仏教に対しての知識が豊かな女性でありました。本名は不明。「清少納言」は女房名で、「清」は清原氏を表し、「少納言」は当時の習慣で夫・父・兄など親近者の官名によったと思われますが、詳細は不明です。」

お婆さん 「不明、不明って、自分かてよー知らんくせに、偉そーに、…ブツブツ」
秋山枯木

「エッヘン、オッホン。16歳で橘則光と結婚し翌年長男を生んだものの、やがて関係がややこしくなり、則光が遠江守になって赴任したことで「さよーなら」。藤原実方さらには藤原棟世とも家庭を持ったと言われています。棟世との間にはのちに「子馬命婦」と呼ばれた娘をもうけています。
 993年ごろ(清少納言28歳くらい)から、藤原道隆の長女で一条天皇の中宮であった定子に仕え、その寵愛を受けましたが、その定子は1000年12月、25歳で亡くなりました。
 宮仕えを退いたのち、赤染衛門や和泉式部などと歌を贈答していたことがその歌集に見えますが、零落した生活を送っていたことが中世の説話類に見えます。
 では、なぜそんな清少納言のお墓が鳴門市里浦町にあるのでしょーか。」

お爺さん 「ほらきた! まっかせなさい。それは、ウオッホン、ここで亡くなったからです。へー、へー、へー、へー、へー、へー、へー、へー、連続8へーじゃ。」
秋山枯木 「やかましい。芋の食い過ぎじゃあるまいに。連続8屁とは、お下品です!」
お婆さん 「まあまあ、言い伝えですから、まして千年も前のことですから。でも、最近はお爺さんもめっきりお尻の締まりが悪くなって・・・・(涙)。」
お爺さん 「お前まで何を言うんじゃあー。ええかげんにせえー。わしゃまだまだ元気じゃあー。」
秋山枯木 「もー放っとこ。知らん知らん。」

お隣の香川県にもお墓があります。あっちこっちで死んでるんですねえ、清少納言って。

(1) 香川県東かがわ市白鳥町のお墓と (2) 金比羅さんの塚も紹介しておきましょう。ドライブのついでにでも立ち寄ってみてください。
(1) 口承によると、悪病のため流された清少納言が讃岐白鳥の海岸に漂着、里人が厚く看護したが5日後亡くなり、これを哀れんで都の見える海に面した与治山の峰に葬った。その地に建てられた《与治山神社》は以来婦人病の神として崇められ、通称「清少納言さん」と呼ばれ、山頂に鎮座する。
 9月第1日曜日の「清少納言祭り」には当地はもとより遠隔地からの参拝者で賑わう。
※写真をクリックすると大きい画像を表示します。
(2) 金刀比羅宮の清少納言塚(仲多度郡琴平町)

 讃岐の「こんぴらさん」参道にある大門、その左にある鼓楼のそばに塚があり、「清少納言の塚」といわれた。むかしこれを移転しようと思い立ったところ、神官の夢に女が現れて歌を詠んだ。

     現つなき 跡のしるしを 誰にかは 問はれんなれど ありてしもがな

 この歌により清少納言の墓に間違いないとわかり、そのまま手をつけないことにしたという。

でもって、前の(1)(2)の話の後には記しにくい内容なのですが、まっ、言い伝えですから、まして千年も前のことですから、まあまあ。
 清少納言が父の領地鳴門に住み始めた頃、地元の漁師たちが都の女性ということでたいそう興味を持ち、あらぬ行為に及ぼうとしました。彼女は我が身の貞操を守るため、自ら鰯山の麓里浦の海へ身を沈めたのです。
 イガイ(貽貝)は、鳴門市の鳴門海峡付近が多産地ですが、里浦町には「イガイは清少納言の生まれ変わり」という伝説があります。
お爺さん 「あれはワシが19歳の時じゃった。雨がたいそう降っていてのう……。」
お婆さん 「犯人はアンタかい。私だけを愛してるって言ったじゃないですか。ビャー(号泣)」
秋山枯木 「もーほんまに付き合いきらん。放っとこ。知らん知らん。えーっと、あっ、ここ、ここ。」
ごめんくださーい。数年前にお参りの折、お話をお聞かせ頂いた秋山です。あの時は大変お世話になりました。」
おじゅっさん
(住職)
「よー来てくれましたなぁー。まあゆっくり見ていってください。」
写真1:祭壇
 お参りを済ませ祭壇(写真1)の左の板戸をあけてもらって、真っ暗な堂内に入る。コンセントを手探りで探し当てて裸電球の灯りを点けると、眼前30cmに3m弱の砂岩の石塔がところせしと建っている。
 相輪(写真2)・笠石(写真3)を見上げ、塔身(写真4)に梵語が刻まれているところから宝篋印塔と思われる。もともと経典を納めていた塔で、鎌倉期頃から供養塔・墓碑として作られるようになったという。1020〜1030年頃に父の領地で亡くなったといわれる清少納言を、後の人が供養したと考えると辻褄が合ってくる。まっ、歴史は後世の都合によって作られたと思えば、このくらいの独断は誰も責めたりはしないだろう。
 このお堂は観音寺の支配にあるそうで、おじゅっさんの息子さんが継がないとなれば、無責任な外野としても聊か心配なことである。
上写真2:相輪
下写真3:笠石

 帰り道で、お孫さんを背負ったご婦人と畑仕事中の初老の男性に挨拶。尼塚に話を向けてみると、先日お坊さんと大きな外人さんとが尼塚への道を尋ねてきたとのこと。

「観音寺さんの『尼塚』はどちらでしょうか?」と言われて、ご婦人は初めて観音寺所領の塚と知ったそうだ。

豪快に笑い飛ばしている横で、くだんの男性が「へー、ワシも知らなんだわ」。
県でも市でもいいから、教育委員会が中心となって郷土の歴史を守る施策が必要なのでは、と強く思うのであった。

 なお、毎月旧暦の10日には祭礼が行われており、婦人病や安産に霊験あらたかで、5月の上旬には真っ白な大藤が前庭で満開になる。(写真5)

写真4:塔身 写真5:あま塚
 旧11号線を徳島から鳴門に向かって進む。鳴門警察署を右に見て次の信号を右折。城見橋を渡ったらひたすら直進1400m。牡丹で有名な観音寺を左手に見て緩い左80度カーブ。細い道を道なりに進むと左前方に十二神社(写真6)がある。
上写真6:十二神社
上写真7:道案内
乗用車はここの境内に駐車しておくのが無難。ここからは境内を出て左に、神社を回るように進む。150m歩けば右の電柱に道案内(写真7)が掛かっている。そこから50m前方にお堂(写真8)がある。
里浦の風景 尼塚遠景 写真8:お堂
<<戻る